文化講演会 「鈴木慧氏氏講演会」のご報告
文化講演会「倭と日本」(講師・鈴木慧氏)の講演を終えて
2023年11月7日 斎藤節子記
古代史には壮大なロマンがある。鈴木氏の古代史講演は過去にも行われているが、テーマは実に多様で興味の尽きるところがない。
近年科学の進歩で、DNA鑑定の進化や地質学分野での炭素14C年代法の開発で、過去の歴史が塗り替えられるかもしれない状況は、歴史好きの人たちを更にワクワクさせる要因にもなっている。
さて今回のテーマは「倭と日本」であるが、なぜ「倭」という地域名となったか、大陸の文書や石碑に記された「倭」、古事記・日本書紀にはどのように記述され、いつから「倭」が「日本」に変わったか、さらに「日本」と名乗ったのはなぜか?「日本」の意味は?など様々な角度から検証し分析を深めている。
そもそも、日常何気なく使われている「日本」という文字に、背景にはこれほどまでの歴史的経緯があることを、鈴子氏の講演から改めて認識を新たにした次第である。
私の感想はこれぐらいにして、以下本講演の要旨をレジメよりお伝えしたい。
「倭」とは中国がはるか東の果てにいる人々を、その姿形から名付けた地域名であろう。
根拠:「倭」は、その初期九州北部地域をさしていた。 魏志倭人伝記述・後漢書金印
記紀に使用された「倭」が多くあること。大宝律令発布後の持統・文武天皇の諡号にも使用されている。
「日本」 大和政権は「倭」とは別の勢力であった。中国・朝鮮側の資料記載の「倭」に関する記事で、記紀に記載されていないものが多すぎる。倭の五王・遣唐使・対高句冷戦等々。記紀に磐井の乱以前に、九州を支配下に置いていると推測される記事がない。
「日本」という国名 日出る国という字句は中国にとっても受け入れやすい字句だった。
*残された課題 大和武尊の熊襲征伐、大和政権の白村江戦参加度、
倭=ヤマト=大倭=大和とする地名(倭の勢力の一部が、北部九州から
奈良へ移ったとする説あり)
以上
2023年11月7日 斎藤節子記
古代史には壮大なロマンがある。鈴木氏の古代史講演は過去にも行われているが、テーマは実に多様で興味の尽きるところがない。
近年科学の進歩で、DNA鑑定の進化や地質学分野での炭素14C年代法の開発で、過去の歴史が塗り替えられるかもしれない状況は、歴史好きの人たちを更にワクワクさせる要因にもなっている。
さて今回のテーマは「倭と日本」であるが、なぜ「倭」という地域名となったか、大陸の文書や石碑に記された「倭」、古事記・日本書紀にはどのように記述され、いつから「倭」が「日本」に変わったか、さらに「日本」と名乗ったのはなぜか?「日本」の意味は?など様々な角度から検証し分析を深めている。
そもそも、日常何気なく使われている「日本」という文字に、背景にはこれほどまでの歴史的経緯があることを、鈴子氏の講演から改めて認識を新たにした次第である。
私の感想はこれぐらいにして、以下本講演の要旨をレジメよりお伝えしたい。
「倭」とは中国がはるか東の果てにいる人々を、その姿形から名付けた地域名であろう。
根拠:「倭」は、その初期九州北部地域をさしていた。 魏志倭人伝記述・後漢書金印
記紀に使用された「倭」が多くあること。大宝律令発布後の持統・文武天皇の諡号にも使用されている。
「日本」 大和政権は「倭」とは別の勢力であった。中国・朝鮮側の資料記載の「倭」に関する記事で、記紀に記載されていないものが多すぎる。倭の五王・遣唐使・対高句冷戦等々。記紀に磐井の乱以前に、九州を支配下に置いていると推測される記事がない。
「日本」という国名 日出る国という字句は中国にとっても受け入れやすい字句だった。
*残された課題 大和武尊の熊襲征伐、大和政権の白村江戦参加度、
倭=ヤマト=大倭=大和とする地名(倭の勢力の一部が、北部九州から
奈良へ移ったとする説あり)
以上